肺がん
診察の翌日、お義母さんの髪を切ってあげた。 ずっと「コルセットに挟まってじゃま」って言っていたから。
これから少しでもいい状態を保つために。 まずは「首の骨を折らないこと」が最重要らしい。 そのためにできることの一つが「放射線治療」 次に言われたことが「骨を強くする注射を打つ」
B病院のデータを持って、再度C病院に行った。 「今後の治療方針を決める」 といっても、治るわけじゃない。 「少しでも長く生きるためにはどうすればいいのか」 を決めるだけ。 そのことを再度、思い知った。
B病院から紹介状をもらい、C病院に行く。 結論から言うと、初日は 「顔合わせ」みたいなものだった。
10日前に病院で会ったときの印象。 (ボケちゃってるけど、お義父さんを認識できるかな?) (足もこんなに細くなっちゃって…歩けるのか?) (そもそも立てるのか!?) そして喜び半分、不安半分で迎えた退院当日。
前に頸椎にがんが転移しているという話をされた。 放射線治療をしなければならないけど、うちにはその設備がないと。 首の骨が弱っている状態なので、ぽきっといっちゃうと息ができなくなり、死んじゃいますよと…。
6主治医の先生がお義母さんの病状を説明したいとのことで病院に行く。 その席にはお義母さんも同席するらしい。 実に一カ月半ぶりの生・お義母さん!!! (夫も嬉しそう)
近しい人にお義母さんの話をすることがある。 ほんとに仲のいい人に話すこともあるし、行きがかり上話してしまうこともある。 そんな時、人々の反応は結構まちまち。
介護認定の申請に行った翌日、居宅支援事業所(ケアマネージャーがいるところらしい)に電話をすることにした。 まずはそこに連絡し、ケアマネに話しをつけ(←?)、介護プランを練ってもらわないといけないそうだ。 (うーん。いっぱいあるなー。どこがいい…
B病院の医療福祉相談室とやらが電話をかけてきた。 「お義母さんの退院に先立ちまして、 介護認定の手続きをされてはいかがでしょうか?」 (え?それはなに?)
私がコロナで寝込んでいる間に、主治医から夫に電話があった。 「タグリッソはよく効いていますし、副作用もみられません。ただ…」 (ただ?)
コロナのせいで面会ができない。 荷物を持っていっても、看護師さんが受け渡しをしてくれる。 たまに病院から 「ふらついて尻もちをついた」だの 「皮膚科の病棟から呼吸器内科に移った」だのと 電話がくるくらいだ。 お義母さんがどういう様子なのか全くわ…
お義母さんが「肺がん」と宣告されたとき。 「そうは言っても5年ぐらいは生きるんでしょ?」と思った。
主治医から電話があった。 「お義母さんのがんには分子標的薬が使えます!」
あと2週間でやっとがん治療が始まる! がん治療が始まれば、自覚症状のない肺はともかく、足の腫れと痛みが治まって普通に歩けるようになるはず! 骨盤付近のがん細胞が小さくなれば、排便や排尿の問題も解消されるはず! と思っていたのだけれど…。
入院手術の翌週、採れ高の確認に病院へ。 (検査に足りるだけのがん細胞が採れているかの報告を聞きに) やっぱり(この来院は必要か?)という気持ちがぬぐえない。 待合室でお義母さんと話していたら、お義母さんが言った。 「ねえ、ここ…どうなってる?」
友人にお義母さんの病気について話した。 彼女は「そういう年だよね」と大して驚きもせず聞いてくれた。 そしてとある食事療法を紹介してくれた。 知人のジャーナリストさんが取材していたらしい。 その食事療法とは…
コロナのせいで患者以外は入院病棟に足を踏み入れることができない。 一度入院したら最後、面会もできない。 お義母さんとは入院病棟に向かうエレベーターの前でお別れとなる。 といっても、肺の細胞を採る手術は一日の入院で翌日お迎えなんだけど。
もう治療が始まると思っていただけに腹立たしい。 でも言っても仕方がないのでもう一度採ってもらうしかない。 次の週、私とお義母さんは再び病院に来た。入院手続きを待っている間、待合室のTVをぼーっと見ていた。
告知から三週間が経った。 分子標的薬がお義母さんのがんに使えるかどうかを聞きに行く日だった。 診察室前は今日もすごい人で、一時間くらい待たされるのを覚悟する。 ついに呼ばれた。
「もういつ死んでもいいんです」 診察室でお義母さんはつぶやいた。
まさかの肺がん告知。 そしてさらに医者は告げた。 「MRIで骨盤のあたりにも腫瘍が見つかりました」
お義母さんが医者に「肺がん」って言われた。 正確に言うと「悪性腫瘍でした」と言われたので 心の中で「がーん」とか言わなくて済んだけど (え!?そんなにはっきり本人に言っちゃうの!?) とショックだった。